映画二本立て(少々ネタばれ有り)

本日は久慈氏と映画を見に行きました。「THE有頂天ホテル」と「輪廻」の二作。組み合わせとしては些か異色な気はしないでもないですが、気にしない気にしない。
始めは「THE有頂天ホテル」から。内容の総評としてはかなり面白かったです。俳優さんの人数がかなり多かったのですが、視点を一箇所、一人の役者を主人公にするのではなく、登場する誰もが主役でした。視点の切り替え一つをとっても、それをする理由、人がホテルのいたるところに移動する理由も明確で滑らか。人と人との縁、「誰もが誰かの何か」であるところが非常に素晴らしい。しかも、登場人物に対してそれぞれが必ず脚光を浴びる場面があったのが上手いと思いましたね。「人生は舞台」とはよく言ったものです。
一つだけ楽しめなかったこと。それは「THE有頂天ホテル」が悪いわけではなく私が理解できてなかっただけなのですが、ある愛人さんが突然出てきたように感じたことでした。後から久慈氏と話して「ああ、あの人だったのか」と、関連性があって登場してたことがわかりましたが、人の認識感覚が甘かったようで上映時には違和感を覚えてしまいましたよ、あっはっは。「逆転裁判やって弁護士目指す子供がいるようにこの映画を見て「ホテルマン」を目指す子もいるかね〜?」と久慈氏に問うと「んなわきゃねー、あんな忙しい仕事」といわれました。微妙に夢がないような。まあ、そんな歳でもありませんが。ただ、ああいうホテルに泊まって「いってらっしゃいませ、おかえりなさいませ」と言われてみたいですね。
次は「輪廻」、こちらは総評だと奥歯に何かが引っかかったような感慨を受けました。「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」をもじって「前世憎くけりゃ現世も憎い」といった内容。別に面白くないわけじゃなく解釈も含めて斬新でした。視点は「THE有頂天ホテル」と同じく多彩な視点。ホラー映画によくある固定の「案内人」(最後まで生き残るにしろ、最後に死ぬにしろ、呪われるにしろ)がいないのですが回想、現世、前世を上手く回して時間軸から取り残されることはありません。一番の焦点だと感じたのは、前世で殺人鬼だったら現世まで持ち越されて、殺された相手に恨まれなければいけないのだろうか?ということ。日本人的な感覚として「切腹」があります。死んで詫びる、責任を取るという意味合いがそれ。死は一つの逃げでありながらその生に対する一つの区切りと考える。また、前世の報いがあればそれは来世(この場合現世)ではその因業によって人に生まれることはなかったりする。これを業という。人に生まれることがあればその業を流した?というか浄化されたと考えてしまう。多分に火の鳥や仏教の影響がありますな。まあ、殺された相手にしてみれば何でもいいのかもしれないですけど、現世で平和に暮らしてた人たちが流したはずの因業に再び巻き込まれるのはどんな理屈なんだか。かなり理不尽に感じちゃいましたよ。独立した恨みは記憶や魂に拠らない純粋な「力」なのかな。しかし、それを押して話にしようと考えられるところが「理不尽であるからありえない」と思考停止してる私としては斬新でした。いやー、それにしても怖い怖い。前世からの恨みは業が深そうだ。有頂天ホテルとはまた違った縁。こういう縁を指して因縁というんだね、いらないけど。